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中国帰国者(寺岡満行さん)の歩んできた人生「兄姉と41年ぶりの再会」

2024.11.08 掲載

 中国から日本に帰国した中国残留邦人は、第二次世界大戦後、長期にわたって中国に残留を余儀なくされたため、日本人としての教育を受ける機会がなく、中高年となって帰国したため、日本語の習得は大変困難な状況で、既に後期高齢期を迎えています。
 また、家族も日本語が不自由であり、就労も思うようにいかず、安定した職も得られなかったことから、老後の生活への不安など、その置かれている環境には厳しいものがあります。帰国した中国残留邦人やその家族を中国帰国者と呼び、中国帰国者支援・交流センターでは、日本での生活を支援しています。
 今回は、中国帰国者(寺岡満行さん)の歩んできた人生「兄姉と41年ぶりの再会」をご紹介します。

満州に残されて

 私は、昭和19年に佐伯郡湯来町で生まれ、1歳になる前に家族10人で満州に渡りました。満州へ行ってわずか1年で終戦となり、私たち家族は避難を始めました。途中で父と姉2人が亡くなり、母は6人の子を抱えて1人ではどうしようもなくなり、2人の姉と幼い私を別々の中国人に預け、3人の兄を連れて日本に帰国しました。幼かった私はその頃のことは何も覚えていません。
 私の養父母はとても優しく、大切に育ててくれたので、私は自分が孤児だとは知らずに育ちました。しかし、小学生の頃、日本人だとからかわれるようになり、自分は日本人かもしれないと思うようになりましたが、信じないようにしていました。中国に残された2人の姉の家も同じ地域にありましたが、姉だということは知りませんでした。ある日、姉が「あなたは私の弟よ」と話しかけてきましたが、私は「違うよ!」と言い返しました。
 昭和28年頃に2人の姉が帰国することになり、一緒に帰国しようと私を訪ねてきました。しかし、養母は私が日本に帰国するのを恐れて、「あの家族なら引越したよ」と嘘をついたそうです。姉たちは私を見つけることができないまま、日本に帰国してしまいました。

中国での生活

 高校生の時、ある人が「君は日本人でしょう」と言って、姉たちが預けられていた中国人の家に連れて行きました。そして、姉たちが日本に帰国したことを知り、自分はやはり日本人なんだと確信しました。それでも、自分を大切にしてくれる養父母に確認することはできませんでした。養父母は苦しい生活を送りながらも、私のことを最優先にしてくれ、吉林大学に行かせてくれました。
 大学在学中に始まった「文化大革命」の時には、お世話になった先生が、私が日本人だということを秘密にしてくれたおかげで、ひどい目に遭うこともなく、無事に卒業することができました。あの時の先生には今でも感謝しています。大学卒業後は、吉林市で高校の数学教師として働き始めましたが、日本人だと知られないように、上をめざさず、目立たないように静かに生きてきました。25歳の時に、結婚し2人の息子にも恵まれました。
 その後、養母がなくなり、養父を引き取り一緒に生活するようになりましたが、養父に認知症のような症状が現れ、「あの子は日本人だ」とあちこちで言いふらすようになりました。今まで私が日本人だということを隠し続けてきたのに、なぜそんなことを言うのかその時は理解できませんでした。養父の口からはっきりと日本人だと言われ、本当に悲しくつらかったです。実の息子として、最後まで親孝行したかったのですが、自分の中で急に「自分は誰なのか、本当の親や兄弟はいるのか、故郷はどこなのか…」ということをはっきり確認したいと思うようになりました。

兄姉と41年ぶりの対面

 そこで、今まで参加したことがなかった日本人肉親捜しの調査団に参加することにし、昭和61年、家族を探しに日本に来ました。自分には姉がいたことや、当時住んでいた場所などの情報があったので、すぐに兄や姉と対面することができました。姉は、私の中国名と住んでいた場所、年齢、養父の職業などについて覚えていて、しかも兄姉と顔がよく似ていたので、血液検査をすることもなく、間違いない!と直感でわかりました。
 翌日、広島駅に着くと、親戚をはじめ、役所の人や報道関係者など多くの人が出迎えてくれました。一番会いたかった母は、ずっと満州に置いてきた私のことを心配していたそうですが、残念なことに私が帰郷する9年前に他界していました。
 私は何もかもがあまりにも突然のことすぎて、何がどうなっているのか考えられませんでした。でも、お墓参りに行き「これが自分の家で、これが自分の故郷なんだ…」と思った時に、急に実感が湧いてきて、涙が溢れてきました。兄たちはすぐに永住帰国を願ってくれましたが、中国での生活も安定しており、何より老いた養父がいたので、すぐに永住帰国する気にはなれませんでした。兄たちとはお互いに話したいことはたくさんあるのに、言葉がわからなくて、思いのひとつも伝えることができずに、はがゆくて仕方ありませんでした。

41年ぶりの故郷広島

日本への永住帰国

 身元が判明した後も、中国での安定した生活を捨てて、日本で暮らすことへの不安から、永住帰国することは躊躇していました。しかし、家族が「日本はいいところなので、みんなで帰国しよう」と言ってくれたので、定年後の平成16年に永住帰国しました。今、子どもたちは自立し、仕事を頑張っています。孫たちも元気に学校へ通っています。日本に帰ってきて苦労したことは、やはり言葉でしたが、徐々に理解できるようになってきました。周りの人には日本語ができないせいで、中国人だと思われることもありますが、自分自身が日本人だと思っているので、気にしていません。
 今は、孫たちの世話をしたり、パソコンを学んだりして、日々穏やかに過ごしています。戦争のことはあまり考えたくありません。幼いときに満州で孤児になってしまった運命を受け入れるしかありません。これから先は、子どもたちの安定した生活を願い、孫たちが立派に成長してくれることを楽しみに過ごしていきたいと思います。

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中国帰国者(寺岡満行さん)の歩んできた人生「兄姉と41年ぶりの再会」(福祉ひろしま2024年10月号)(別タブで開きます)

 

 

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